今日は朱莉が葛飾区のアパートから六本木の億ションに引っ越しをする日である。全ての梱包作業を終え、不動産業者の賃貸状況の査定も何とか敷金で賄えて、追加料金を取られる事も無かった。後はこれで引っ越し業者がやって来るのを待つだけ。今迄自分で使っていた家具や家電は全て処分してしまったので部屋に置かれている荷物は段ボール10箱ばかりにしか満たなかった。朱莉がこの部屋で使用していた家具、家電はどれも1人用の小さな物ばかりで、逆に持っていけば邪魔になるような物ばかりだったからである。「新しい家に着いたら家具を買いに行かなくちゃ」朱莉はぽつりと呟いた。 引っ越し期間があまりにも短すぎた為に結局朱莉はこれから引っ越す億ションの内覧すらしていなかった。なのでどんな家具を買えば良いのかも一切分からず、翔から預かったブラックカードはまだ一度も使った事が無い。がらんとした床に座りながら朱莉は3年間暮らしてきたアパートを改めて見渡した。初めてここに引っ越してきた時は、あまりに狭く、古い造りの部屋に気分が滅入ってしまったが、日当たりが良く、冬でも部屋干しにしていても洗濯物が乾く所が気に入っていた。「住んでいる時はすごく狭い部屋だと思っていたのに……こうしてみると広く見えるものなんだ……」その時、呼び鈴が鳴った。「はい」玄関を開けると引っ越し業者の人達がぞろぞろと現れたので朱莉は面食らってしまった。(ちょっと……一体何人でやってきたの!?)数えると7名もの人数で現れたので、朱莉はすっかり仰天してしまった。一方の引っ越し業者の方も朱莉の荷物の少なさに面食らっている。「あ……あの……引っ越しのお荷物は……?」一番の年長者の男性が朱莉に尋ねてきた。「あの……お恥ずかしい話ですが、段ボール箱……だけなんです……」朱莉は顔を赤くして俯いた。(ああ……恥ずかしい! こんな事なら九条さんに引っ越しの件で連絡を入れれば良かったかも……。でも九条さんも忙しい方だし、私が引っ越し業者に依頼するべきだったんだ……)「申し訳ございません。私からきちんとお話するべきでした」申し訳ない気持ちで一杯になった朱莉は何度も頭を下げるので、かえって引っ越し業者は恐縮する羽目になったのであった。その後、引っ越し業者のトラックを見送った朱莉はマンションの住所を頼に、電車に乗って新しく済む億シ
その夜――21時 朱莉は1人で、億ションの広々とした部屋でベッドの上に丸まって眠っていた。初めはまるで巨大スクリーンに映し出されたかのような夜景に目を見張り、暫く見惚れていたのだが、この億ションはあまりにも広すぎた。朱莉は空しさを感じてしまい、まだ寝るには早すぎる時間なのに、そうそうにベッドに入っていたのである。 朱莉の今使用しているベッドは外国製の大型ベッドで寝心地は最高だった。この家具は、やり手秘書の九条が家具・家電を買いそろえる時間が朱莉には無いと思い、気を利かせて事前に全て買い揃え、部屋にセッティングしてくれていたのである。家具はどれも素敵なデザインばかりで、家電もとても使い勝手が良い物ばかりであった。だがそのどれもが自分で選んだものでは無かったので、ますますここが自分の新居とは思えずにいたのだ。(九条さんは良かれと思って用意してくれていたんだろうけど、出来れば少しくらいは自分で家具を見たかったな……。だけど私のような庶民が選んだ家具だといくら一緒に暮らさないとは言え、時々ここでお客様の接待があるならそれなりの家具じゃないと鳴海先輩に恥をかかせちゃうものね……) こうして1人で場違いなところにいると、何故だか無性に孤独を感じる。あの狭くて古かったけど、日当たりの良かった自分の賃貸アパートが懐かしい。あそこは全て朱莉が1人で選んだものばかりで、まさしく自分1人の城だったのだ。だけど、ここはまるきり自分の家とは思えない。6年経てば出て行かなければならない仮初の自分の住処。いや、状況によってはもっと早めにここを出て行く事になるかもしれない。その為に1年ごと結婚生活の更新と言う形になっているのだ。(今頃鳴海先輩は……この下の階の部屋で明日香さんと過ごしているのかな……?) 防音設備があまりにも整い過ぎているのか、物音ひとつ響いてこないだだっ広い部屋にベッドの中で身じろぎするシーツの音と、朱莉の溜息だけが聞こえるのみだった――****――同時刻 ここはとある高級ショットバー。九条は1人、カウンターでシェリートニックを飲んでいた。「悪い、遅くなったな」そこへ鳴海翔が現れた。「遅い、お前……どれだけ俺を待たせる気だ」仏頂面で九条は鳴海をジロリと睨み付けた。「仕方が無いだろう? 明日香の奴が中々解放してくれないものだから……」「チッ! の
――翌朝 ピンポーン 午前10時。朱莉が引っ越しの荷物の荷解きをしていると玄関からチャイムが鳴った「え……? 誰だろう? 私の所にお客さんなんて……」(鳴海先輩のはずは無いし……九条さんかな?)インターホンの使い方が朱莉には分からなかったので、急いで玄関に向かってドアを開けると、そこには長い髪を茶髪に染めた、スレンダーな美女が立っていた。清楚なワンピースに身を包んだ彼女は正にセレブの姿だ。「貴女ね……? 翔の書類だけの結婚相手は?」じろりと睨み付けるように朱莉を見るその姿は――(明日香先輩!)朱莉にはすぐに彼女の事が分かった。「ふ~ん……。私達の住んでる部屋と殆ど変わらないわね?」明日香は『私達』をわざと強調するかのように値踏みしながら辺りをキョロキョロと見渡すと上がり込んできた。「え~と……。須藤朱莉さん……だったかしら? いずれ貴女がお役御免になったら、この部屋に私と翔が一緒に暮らすのだから、あまり汚さないように気を付けて使ってちょうだいよね。この億ションは私達の持家だけど、下の億ションは賃貸なんだから」明日香は応接室に入るとソファに座る。「はい、分かりました。気を付けて使うようにしますね」朱莉は俯きながら返事をした。(そうか……先輩達は将来この家で夫婦として暮らすのね……)「全く……それにしても地味な女ね。でも辺に見栄えがする女じゃ無くてある意味良かったわ。勘違いして私の翔を誘惑する事も無さそうだしね」この家の主人のように腕組みをしてソファに座る明日香は正に女王様のようにも見えた。「そ、そんな……私は決して鳴海さんの事を誘惑しようとは考えてもいません」慌てて顔を上げて朱莉が言うと、明日香は何処か小馬鹿にしたかのように笑みを浮かべる。「あら、嫌だ。冗談で言ったのに……まさか本気にしちゃった訳? 大体貴女みたいな地味女を翔が見向きするはずないじゃないの」「はい、仰る通りです。明日香さんは本当にお綺麗ですから……」「あら、意外と素直に認めるのね。所でお茶の一杯も出ないのかしら? この家では?」明日香の言葉に朱莉は真っ赤になった。「す、すみません……。まだ引っ越しの荷解きが終わっていないのと……じ、実は給湯器の使い方が分からなくて……」「あら、嫌だ。貴女、そんな事も知らなくて引っ越しして来たの? それじゃ昨夜食事は
ここは鳴海翔のオフィス。ノックの音がして琢磨が部屋に入って来た。「ほらよ、お待たせ」来客用のガラステーブルの上に2人分のランチボックスを置くと琢磨はソファにすわり、奥にある小型冷蔵庫から缶コーヒーを取りだし、プルタブを開けた。「温かいうちのほうが美味いぜ」「ああ、分かったよ」琢磨に促され、翔もランチボックスの置かれているテーブルに移動してソファに座るとボックスを開けて中を見た。「ふう~ん。美味そうじゃないか」「そうだろう? 丁度こっちに戻って来る時に会社の前でキッチンカーが何台か来ていてな。一番行列が出来ている列に並んで買ってきたのさ」琢磨が買って来たのはケバブのランチボックスだった。ソースが良く馴染んだ肉が乗せてあり、サラダやフライドポテトも付いている。「よし、それじゃ食べるか」翔の言葉に琢磨もランチボックスを開けて、2人で食事を始めた。「翔。昨夜、あの後どうしたんだ?」食事をしながら琢磨が尋ねる。「あの後?」「会社の帰り、明日香ちゃんとオフィスビルの外で待ち合わせをして二人で食事して帰ったんだろう?」「それがどうした?」「朱莉さんに何か連絡はいれたのか?」一瞬、ピクリと翔は反応したが、すぐに食事を続けながら答えた。「もちろんだ。メールを入れたよ。一度時間がある時にお互いの事を知る為に一緒に食事でもどうでしょうか? ってな」「おお! お前にしては中々気の利いたメールを入れたじゃ無いか? それで朱莉さんは何だって?」翔は黙って朱莉から届いたメールの内容を琢磨に見せた。<はい、勿論です。よろしくお願いします>「随分シンプルな内容だと思わないか? この俺がわざわざ連絡を入れたって言うのに」どこかつまらなそうに翔は言う。「恐らく気を使っているんじゃないか? 明日香ちゃんにさ。親し気な内容のメールを送って中を見られでもしたらまずいと思ったんじゃないかな?」「え? なんだって明日香に……? 大体明日香が彼女のスマホを……」そこまで言いかけて翔は昨夜の明日香との食事の時の会話を思い出した。<須藤朱莉さんのスマホに私の連絡先を登録しておいたわ。これからは何か困った事があったら連絡を入れてちょうだいと伝えてあるのよ>「そういえば明日香が彼女のスマホに自分の連絡先を登録したと言っていたな……」翔の言葉に琢磨は顔をしかめる。
――その日翔は久しぶりに海外支社に赴任中の社長である父親とPC電話で会話をしていた。『どうだ、翔。本社での様子は?』「はい、今のところは競合他社よりは我が社の方が同価格でも年間にかかるコスト費用を考えれば安く抑えられると相手側企業が判断してくれた為、我が社との取引を決断していただく事が出来ました」「そうか。それは良かったな。ところで翔。今から話す事は社長と副社長としての会話では無く親子としての会話だと思って答えてくれ』急に翔の父親は声のトーンを変えてきた。「ああ。分かったよ。父さん。で……話って何?」 『翔……お前結婚したんだってな?』ああ、やはりその話かと翔は覚悟を決めた。「そうだよ。相手は26歳の須藤朱莉って名前の女性だよ」『全く……何て勝手な事をしてくれたんだよ。会長はカンカンに怒っているんだぞ? 何故父親であるお前がちゃんと見張っていなかったんだ。監督不行き届きだと会長に怒られてしまったんだからな?』「ごめん……父さん。俺はどうしても勝手に結婚相手を決めて欲しくは無かったんだ。父さんのようにね……」すると翔の父は顔を歪めた。『翔……お前……やはり私の事を責めているのか? 勝手にお前の母さんと離婚して他の女性と再婚したことを』「いいえ、まさか。だって会長の命令だったんですよね? 仕方が無いですよ」それに―口には出さなかったが、翔は心の中で思った。(父さんが再婚してくれたから……俺は最愛の女性と知り合う事が出来たのだから)最愛の女性……それは明日香の事である。 元々翔の父親は学生時代から交際していた恋人がいた。2人は卒業後に結婚の約束をしていた。しかし、父親……翔の祖父から猛反対をされたのだ。それでも翔の父は言う事を聞かず、2人は強引に結婚した。結局祖父が折れた形となったのである。やがて2人の間に翔が誕生した。3人での生活がいよいよ始まるという矢先、祖父は翔の母親に対して離婚するように迫ったのである。もし息子を置いて家を出ないのであれば、強引に養子縁組を結んで翔を自分の息子として手元に置くと。翔の父は何とか妻を守ろとしたが、結局周囲の圧力に耐えかねた翔の母は離婚届に判を押し、泣く泣く1人で家を出たらしい。そしてその数年後……精神を病んだまま、実母はこの世を去る事となった。 祖父は息子の離婚が成立すると同時に、大々
この日―― 朱莉は朝目覚めた時からウキウキしていた。何故なら今日は翔と2人で一緒に食事に出かけることになっていたからだ。(きっと鳴海先輩の事だから一流のレストランで食事をしに行くに決まっているだろうな……)となると……。朱莉は広々としたクローゼットを開けた。しかし、そこには数着のスーツと随分以前に購入したワンピース2着のみだった。とても翔と2人で出掛けて食事に行けるような服装ではない。 朱莉はまだ自分たちが裕福だった時代を思い出してみた。朱莉の父は中々のグルメ通で、特にフランス料理には目が無かった。毎週末には必ずと言っていいほど、父と母の親子3人で様々な一流どころのフランス料理店に足を運んでいた。その時に母が着用していた服……。少しだけウェスト周りがゆったりとしたエレガントな色合いの、少し濃い膝下丈のワンピース。あまりヒールのないパンプスを掃いていたことを思い出した。(お母さん……確かネックレスとイヤリングもしていたよね? 鳴海先輩に恥をかかせない為にも思いきって買い物してこようかな……?)朱莉は初めてブラックカードを手に取った。(緊張する……。こんなすごいカードを持って買い物に行くなんて……) 一番自分が持っている服の中でまともな外出着に着替えた朱莉は自分のショルダーバッグを手に取った時に気が付いた。(そうだ! バッグも靴も必要だよね? ……でもそんなに買って鳴海先輩にお金遣いの荒い女だと思われたりしないかな……?)だが―― どうせ翔にはお金目当てで契約結婚にサインをした女だと思われてるに違いないので今更取り繕っても無意味だろう。そう思った朱莉はショルダーバックにブラックカードが入った財布を入れて、部屋を後にした――**** 朱莉が今住んでいる六本木の億ションは高層ビル街に囲まれている。周辺にはデパートもあるので、朱莉は一番手近なデパートの中へと入って行った。久しぶりにデパートへとやって来た朱莉はそのきらびやかな連なる店を見て感動していた。……そしてまだ自分がお嬢様として優雅に暮らしていた時代を少しだけ思い出す。(そういえば、中学生の時まではよくお母さんとデパートに買い物に来ていたっけ……)早く母に元気になってもらいたい。そうしたら母とまた二人でデパートで買い物をして、何か素敵な洋服を買ってあげて母の喜ぶ顔が見てみたい……。
「それで、昨夜の食事会はどうだったんだ?」翌朝、翔のオフィスにやって来た琢磨が早速質問してきた。「どうだったも何も……」翔はデスクの上で両手を組んで顎を乗せると深いため息をついた。「明日香がいたから、ろくに話も出来なかったよ。明日香が一方的に俺にばかり話しかけて、まるで彼女の存在を無視していたんだからな。本当に悪い事をしてしまった」そんな翔の顔を琢磨はポカンと口を開けたまま見つめている。「……何だよ、琢磨。言いたいことがあるなら言えよ」「いや……。お前、今頃自覚したのかと思ってさ……」「まるで俺が最低な男みたいな言い方するなよ」「え? お前、最低じゃないか。自分の幸せのために一人の女性の……若くて今一番大事な時の女性の数年間を奪うんだから。それならせめて条件の処に『浮気可』とでも付け加えてやればどうだ?」琢磨の言葉に翔はカチンとなった。「お前なあ! そんな事して、もし仮に世間に偽装結婚だなんてバレたらどうするんだ!? スキャンダルっていうのは会社の存亡を大きく揺るがす事になりかねないんだからな!?」「ああ、そうだよな。何せお前は色々な経済情報誌から引っ張りだこだしな。それで? いつ世間には自分が結婚した事を公表するつもりなんだ?」「日後に祖父が一時的に日本に帰国して来るんだ。祖父から正式な結婚の許しを得たら……公表するつもりだ」翔はスマホを操作し、スケジュール画面を見る。「羽田空港に……ニューヨークから15:00着予定だ」「当然迎えに行くんだろう?」「ああ。多分車に乗り込んだらすぐに結婚の事で話が出そうだな。父の話では相当祖父は激怒していたらしいから」そして二度目のため息をつく。「まあ、せいぜい頑張って会長に認めさせるんだな。かなり難しいとは思うが……。後は朱莉さん次第だ。彼女がうまくやってくれれば……。だからまずは外見を何とかしてもらおうと思う。あれでは地味過ぎて祖父の心証を悪くしてしまう可能性がある。祖父は外見が華やかな女性の方が社会の目を引くと思っているからな。それで昨日美容院を彼女の名前で予約したんだよ。もう今頃は美容院に行ってる頃じゃないかな? 外見だけでも変化が出れば……」「翔、本気でそんな事言ってるのか? 大体彼女自身がイメチェンしたいと言ってるわけじゃないのに、勝手に美容院なんか予約しやがって」他にもまだ言
築30年の6畳一間に畳2畳分ほどの狭いキッチン。お風呂とトイレはついているけど、洗面台は無し。そんな空間が『私』――須藤朱莉(すどうあかり)の城だった。――7時チーン今朝も古くて狭いアパートの部屋に小さな仏壇の鐘の音が響く。仏壇に飾られているのは7年前に病気で亡くなった朱莉の父親の遺影だった。「お父さん、今日こそ書類選考が通るように見守っていてね」仏壇に手を合わせていた朱莉は顔を上げた。須藤朱莉 24歳。今どきの若い女性には珍しく、パーマっ気も何も無い真っ黒のセミロングのストレートヘアを後ろで一本に結わえた髪。化粧も控えめで眼鏡も黒いフレームがやけに目立つ地味なデザイン。彼女の着ている上下のスーツも安物のリクルートスーツである。しかし、じっくり見ると本来の彼女はとても美しい女性であることが分かる。堀の深い顔は日本人離れをしている。それは彼女がイギリス人の祖父を持つクオーターだったからである。そして黒いフレーム眼鏡は彼女の美貌を隠す為のカモフラージュであった。「いただきます」小さなテーブルに用意した、トーストにコーヒー、レタスとトマトのサラダ。朱莉の朝食はいつもシンプルだった。手早く食事を済ませ、片付けをすると時刻は7時45分を指している。「大変っ! 早く行かなくちゃ!」玄関に3足だけ並べられた黒いヒールの無いパンプスを履き、戸締りをすると朱莉は急いで勤務先へ向かった。**** 朱莉の勤務先は小さな缶詰工場だった。そこで一般事務員として働いている。勤務時間は朝の8:30~17:30。電話応対から、勤怠管理、伝票の整理等、ありとあらゆる事務作業をこなしている。「おはようございます」プレハブで作られた事務所のドアを開けると、唯一の社員でこの会社社長の妻である片桐英子(55歳)が声をかけてきた。「おはよう、須藤さん。実は今日は工場の方が人手が足りなくて回せないのよ。悪いけどそっちの勤務に入って貰えるかしら?」「はい、分かりました」朱莉は素直に返事をすると、すぐにロッカールームへと向かった。そこで作業着に着替え、ゴム手袋をはめ、帽子にマスクのいでたちで工場の作業場へと足を踏み入れた。このように普段は事務員として働いていたのだが、人手が足りない時は工場の手伝いにも入っていたのである。 この工場で働いているのは全員40歳以
「それで、昨夜の食事会はどうだったんだ?」翌朝、翔のオフィスにやって来た琢磨が早速質問してきた。「どうだったも何も……」翔はデスクの上で両手を組んで顎を乗せると深いため息をついた。「明日香がいたから、ろくに話も出来なかったよ。明日香が一方的に俺にばかり話しかけて、まるで彼女の存在を無視していたんだからな。本当に悪い事をしてしまった」そんな翔の顔を琢磨はポカンと口を開けたまま見つめている。「……何だよ、琢磨。言いたいことがあるなら言えよ」「いや……。お前、今頃自覚したのかと思ってさ……」「まるで俺が最低な男みたいな言い方するなよ」「え? お前、最低じゃないか。自分の幸せのために一人の女性の……若くて今一番大事な時の女性の数年間を奪うんだから。それならせめて条件の処に『浮気可』とでも付け加えてやればどうだ?」琢磨の言葉に翔はカチンとなった。「お前なあ! そんな事して、もし仮に世間に偽装結婚だなんてバレたらどうするんだ!? スキャンダルっていうのは会社の存亡を大きく揺るがす事になりかねないんだからな!?」「ああ、そうだよな。何せお前は色々な経済情報誌から引っ張りだこだしな。それで? いつ世間には自分が結婚した事を公表するつもりなんだ?」「日後に祖父が一時的に日本に帰国して来るんだ。祖父から正式な結婚の許しを得たら……公表するつもりだ」翔はスマホを操作し、スケジュール画面を見る。「羽田空港に……ニューヨークから15:00着予定だ」「当然迎えに行くんだろう?」「ああ。多分車に乗り込んだらすぐに結婚の事で話が出そうだな。父の話では相当祖父は激怒していたらしいから」そして二度目のため息をつく。「まあ、せいぜい頑張って会長に認めさせるんだな。かなり難しいとは思うが……。後は朱莉さん次第だ。彼女がうまくやってくれれば……。だからまずは外見を何とかしてもらおうと思う。あれでは地味過ぎて祖父の心証を悪くしてしまう可能性がある。祖父は外見が華やかな女性の方が社会の目を引くと思っているからな。それで昨日美容院を彼女の名前で予約したんだよ。もう今頃は美容院に行ってる頃じゃないかな? 外見だけでも変化が出れば……」「翔、本気でそんな事言ってるのか? 大体彼女自身がイメチェンしたいと言ってるわけじゃないのに、勝手に美容院なんか予約しやがって」他にもまだ言
この日―― 朱莉は朝目覚めた時からウキウキしていた。何故なら今日は翔と2人で一緒に食事に出かけることになっていたからだ。(きっと鳴海先輩の事だから一流のレストランで食事をしに行くに決まっているだろうな……)となると……。朱莉は広々としたクローゼットを開けた。しかし、そこには数着のスーツと随分以前に購入したワンピース2着のみだった。とても翔と2人で出掛けて食事に行けるような服装ではない。 朱莉はまだ自分たちが裕福だった時代を思い出してみた。朱莉の父は中々のグルメ通で、特にフランス料理には目が無かった。毎週末には必ずと言っていいほど、父と母の親子3人で様々な一流どころのフランス料理店に足を運んでいた。その時に母が着用していた服……。少しだけウェスト周りがゆったりとしたエレガントな色合いの、少し濃い膝下丈のワンピース。あまりヒールのないパンプスを掃いていたことを思い出した。(お母さん……確かネックレスとイヤリングもしていたよね? 鳴海先輩に恥をかかせない為にも思いきって買い物してこようかな……?)朱莉は初めてブラックカードを手に取った。(緊張する……。こんなすごいカードを持って買い物に行くなんて……) 一番自分が持っている服の中でまともな外出着に着替えた朱莉は自分のショルダーバッグを手に取った時に気が付いた。(そうだ! バッグも靴も必要だよね? ……でもそんなに買って鳴海先輩にお金遣いの荒い女だと思われたりしないかな……?)だが―― どうせ翔にはお金目当てで契約結婚にサインをした女だと思われてるに違いないので今更取り繕っても無意味だろう。そう思った朱莉はショルダーバックにブラックカードが入った財布を入れて、部屋を後にした――**** 朱莉が今住んでいる六本木の億ションは高層ビル街に囲まれている。周辺にはデパートもあるので、朱莉は一番手近なデパートの中へと入って行った。久しぶりにデパートへとやって来た朱莉はそのきらびやかな連なる店を見て感動していた。……そしてまだ自分がお嬢様として優雅に暮らしていた時代を少しだけ思い出す。(そういえば、中学生の時まではよくお母さんとデパートに買い物に来ていたっけ……)早く母に元気になってもらいたい。そうしたら母とまた二人でデパートで買い物をして、何か素敵な洋服を買ってあげて母の喜ぶ顔が見てみたい……。
――その日翔は久しぶりに海外支社に赴任中の社長である父親とPC電話で会話をしていた。『どうだ、翔。本社での様子は?』「はい、今のところは競合他社よりは我が社の方が同価格でも年間にかかるコスト費用を考えれば安く抑えられると相手側企業が判断してくれた為、我が社との取引を決断していただく事が出来ました」「そうか。それは良かったな。ところで翔。今から話す事は社長と副社長としての会話では無く親子としての会話だと思って答えてくれ』急に翔の父親は声のトーンを変えてきた。「ああ。分かったよ。父さん。で……話って何?」 『翔……お前結婚したんだってな?』ああ、やはりその話かと翔は覚悟を決めた。「そうだよ。相手は26歳の須藤朱莉って名前の女性だよ」『全く……何て勝手な事をしてくれたんだよ。会長はカンカンに怒っているんだぞ? 何故父親であるお前がちゃんと見張っていなかったんだ。監督不行き届きだと会長に怒られてしまったんだからな?』「ごめん……父さん。俺はどうしても勝手に結婚相手を決めて欲しくは無かったんだ。父さんのようにね……」すると翔の父は顔を歪めた。『翔……お前……やはり私の事を責めているのか? 勝手にお前の母さんと離婚して他の女性と再婚したことを』「いいえ、まさか。だって会長の命令だったんですよね? 仕方が無いですよ」それに―口には出さなかったが、翔は心の中で思った。(父さんが再婚してくれたから……俺は最愛の女性と知り合う事が出来たのだから)最愛の女性……それは明日香の事である。 元々翔の父親は学生時代から交際していた恋人がいた。2人は卒業後に結婚の約束をしていた。しかし、父親……翔の祖父から猛反対をされたのだ。それでも翔の父は言う事を聞かず、2人は強引に結婚した。結局祖父が折れた形となったのである。やがて2人の間に翔が誕生した。3人での生活がいよいよ始まるという矢先、祖父は翔の母親に対して離婚するように迫ったのである。もし息子を置いて家を出ないのであれば、強引に養子縁組を結んで翔を自分の息子として手元に置くと。翔の父は何とか妻を守ろとしたが、結局周囲の圧力に耐えかねた翔の母は離婚届に判を押し、泣く泣く1人で家を出たらしい。そしてその数年後……精神を病んだまま、実母はこの世を去る事となった。 祖父は息子の離婚が成立すると同時に、大々
ここは鳴海翔のオフィス。ノックの音がして琢磨が部屋に入って来た。「ほらよ、お待たせ」来客用のガラステーブルの上に2人分のランチボックスを置くと琢磨はソファにすわり、奥にある小型冷蔵庫から缶コーヒーを取りだし、プルタブを開けた。「温かいうちのほうが美味いぜ」「ああ、分かったよ」琢磨に促され、翔もランチボックスの置かれているテーブルに移動してソファに座るとボックスを開けて中を見た。「ふう~ん。美味そうじゃないか」「そうだろう? 丁度こっちに戻って来る時に会社の前でキッチンカーが何台か来ていてな。一番行列が出来ている列に並んで買ってきたのさ」琢磨が買って来たのはケバブのランチボックスだった。ソースが良く馴染んだ肉が乗せてあり、サラダやフライドポテトも付いている。「よし、それじゃ食べるか」翔の言葉に琢磨もランチボックスを開けて、2人で食事を始めた。「翔。昨夜、あの後どうしたんだ?」食事をしながら琢磨が尋ねる。「あの後?」「会社の帰り、明日香ちゃんとオフィスビルの外で待ち合わせをして二人で食事して帰ったんだろう?」「それがどうした?」「朱莉さんに何か連絡はいれたのか?」一瞬、ピクリと翔は反応したが、すぐに食事を続けながら答えた。「もちろんだ。メールを入れたよ。一度時間がある時にお互いの事を知る為に一緒に食事でもどうでしょうか? ってな」「おお! お前にしては中々気の利いたメールを入れたじゃ無いか? それで朱莉さんは何だって?」翔は黙って朱莉から届いたメールの内容を琢磨に見せた。<はい、勿論です。よろしくお願いします>「随分シンプルな内容だと思わないか? この俺がわざわざ連絡を入れたって言うのに」どこかつまらなそうに翔は言う。「恐らく気を使っているんじゃないか? 明日香ちゃんにさ。親し気な内容のメールを送って中を見られでもしたらまずいと思ったんじゃないかな?」「え? なんだって明日香に……? 大体明日香が彼女のスマホを……」そこまで言いかけて翔は昨夜の明日香との食事の時の会話を思い出した。<須藤朱莉さんのスマホに私の連絡先を登録しておいたわ。これからは何か困った事があったら連絡を入れてちょうだいと伝えてあるのよ>「そういえば明日香が彼女のスマホに自分の連絡先を登録したと言っていたな……」翔の言葉に琢磨は顔をしかめる。
――翌朝 ピンポーン 午前10時。朱莉が引っ越しの荷物の荷解きをしていると玄関からチャイムが鳴った「え……? 誰だろう? 私の所にお客さんなんて……」(鳴海先輩のはずは無いし……九条さんかな?)インターホンの使い方が朱莉には分からなかったので、急いで玄関に向かってドアを開けると、そこには長い髪を茶髪に染めた、スレンダーな美女が立っていた。清楚なワンピースに身を包んだ彼女は正にセレブの姿だ。「貴女ね……? 翔の書類だけの結婚相手は?」じろりと睨み付けるように朱莉を見るその姿は――(明日香先輩!)朱莉にはすぐに彼女の事が分かった。「ふ~ん……。私達の住んでる部屋と殆ど変わらないわね?」明日香は『私達』をわざと強調するかのように値踏みしながら辺りをキョロキョロと見渡すと上がり込んできた。「え~と……。須藤朱莉さん……だったかしら? いずれ貴女がお役御免になったら、この部屋に私と翔が一緒に暮らすのだから、あまり汚さないように気を付けて使ってちょうだいよね。この億ションは私達の持家だけど、下の億ションは賃貸なんだから」明日香は応接室に入るとソファに座る。「はい、分かりました。気を付けて使うようにしますね」朱莉は俯きながら返事をした。(そうか……先輩達は将来この家で夫婦として暮らすのね……)「全く……それにしても地味な女ね。でも辺に見栄えがする女じゃ無くてある意味良かったわ。勘違いして私の翔を誘惑する事も無さそうだしね」この家の主人のように腕組みをしてソファに座る明日香は正に女王様のようにも見えた。「そ、そんな……私は決して鳴海さんの事を誘惑しようとは考えてもいません」慌てて顔を上げて朱莉が言うと、明日香は何処か小馬鹿にしたかのように笑みを浮かべる。「あら、嫌だ。冗談で言ったのに……まさか本気にしちゃった訳? 大体貴女みたいな地味女を翔が見向きするはずないじゃないの」「はい、仰る通りです。明日香さんは本当にお綺麗ですから……」「あら、意外と素直に認めるのね。所でお茶の一杯も出ないのかしら? この家では?」明日香の言葉に朱莉は真っ赤になった。「す、すみません……。まだ引っ越しの荷解きが終わっていないのと……じ、実は給湯器の使い方が分からなくて……」「あら、嫌だ。貴女、そんな事も知らなくて引っ越しして来たの? それじゃ昨夜食事は
その夜――21時 朱莉は1人で、億ションの広々とした部屋でベッドの上に丸まって眠っていた。初めはまるで巨大スクリーンに映し出されたかのような夜景に目を見張り、暫く見惚れていたのだが、この億ションはあまりにも広すぎた。朱莉は空しさを感じてしまい、まだ寝るには早すぎる時間なのに、そうそうにベッドに入っていたのである。 朱莉の今使用しているベッドは外国製の大型ベッドで寝心地は最高だった。この家具は、やり手秘書の九条が家具・家電を買いそろえる時間が朱莉には無いと思い、気を利かせて事前に全て買い揃え、部屋にセッティングしてくれていたのである。家具はどれも素敵なデザインばかりで、家電もとても使い勝手が良い物ばかりであった。だがそのどれもが自分で選んだものでは無かったので、ますますここが自分の新居とは思えずにいたのだ。(九条さんは良かれと思って用意してくれていたんだろうけど、出来れば少しくらいは自分で家具を見たかったな……。だけど私のような庶民が選んだ家具だといくら一緒に暮らさないとは言え、時々ここでお客様の接待があるならそれなりの家具じゃないと鳴海先輩に恥をかかせちゃうものね……) こうして1人で場違いなところにいると、何故だか無性に孤独を感じる。あの狭くて古かったけど、日当たりの良かった自分の賃貸アパートが懐かしい。あそこは全て朱莉が1人で選んだものばかりで、まさしく自分1人の城だったのだ。だけど、ここはまるきり自分の家とは思えない。6年経てば出て行かなければならない仮初の自分の住処。いや、状況によってはもっと早めにここを出て行く事になるかもしれない。その為に1年ごと結婚生活の更新と言う形になっているのだ。(今頃鳴海先輩は……この下の階の部屋で明日香さんと過ごしているのかな……?) 防音設備があまりにも整い過ぎているのか、物音ひとつ響いてこないだだっ広い部屋にベッドの中で身じろぎするシーツの音と、朱莉の溜息だけが聞こえるのみだった――****――同時刻 ここはとある高級ショットバー。九条は1人、カウンターでシェリートニックを飲んでいた。「悪い、遅くなったな」そこへ鳴海翔が現れた。「遅い、お前……どれだけ俺を待たせる気だ」仏頂面で九条は鳴海をジロリと睨み付けた。「仕方が無いだろう? 明日香の奴が中々解放してくれないものだから……」「チッ! の
今日は朱莉が葛飾区のアパートから六本木の億ションに引っ越しをする日である。全ての梱包作業を終え、不動産業者の賃貸状況の査定も何とか敷金で賄えて、追加料金を取られる事も無かった。後はこれで引っ越し業者がやって来るのを待つだけ。今迄自分で使っていた家具や家電は全て処分してしまったので部屋に置かれている荷物は段ボール10箱ばかりにしか満たなかった。朱莉がこの部屋で使用していた家具、家電はどれも1人用の小さな物ばかりで、逆に持っていけば邪魔になるような物ばかりだったからである。「新しい家に着いたら家具を買いに行かなくちゃ」朱莉はぽつりと呟いた。 引っ越し期間があまりにも短すぎた為に結局朱莉はこれから引っ越す億ションの内覧すらしていなかった。なのでどんな家具を買えば良いのかも一切分からず、翔から預かったブラックカードはまだ一度も使った事が無い。がらんとした床に座りながら朱莉は3年間暮らしてきたアパートを改めて見渡した。初めてここに引っ越してきた時は、あまりに狭く、古い造りの部屋に気分が滅入ってしまったが、日当たりが良く、冬でも部屋干しにしていても洗濯物が乾く所が気に入っていた。「住んでいる時はすごく狭い部屋だと思っていたのに……こうしてみると広く見えるものなんだ……」その時、呼び鈴が鳴った。「はい」玄関を開けると引っ越し業者の人達がぞろぞろと現れたので朱莉は面食らってしまった。(ちょっと……一体何人でやってきたの!?)数えると7名もの人数で現れたので、朱莉はすっかり仰天してしまった。一方の引っ越し業者の方も朱莉の荷物の少なさに面食らっている。「あ……あの……引っ越しのお荷物は……?」一番の年長者の男性が朱莉に尋ねてきた。「あの……お恥ずかしい話ですが、段ボール箱……だけなんです……」朱莉は顔を赤くして俯いた。(ああ……恥ずかしい! こんな事なら九条さんに引っ越しの件で連絡を入れれば良かったかも……。でも九条さんも忙しい方だし、私が引っ越し業者に依頼するべきだったんだ……)「申し訳ございません。私からきちんとお話するべきでした」申し訳ない気持ちで一杯になった朱莉は何度も頭を下げるので、かえって引っ越し業者は恐縮する羽目になったのであった。その後、引っ越し業者のトラックを見送った朱莉はマンションの住所を頼に、電車に乗って新しく済む億シ
「おい、琢磨。お前……何勝手に結婚指輪なんて頼んでるんだよ」翌朝、社長室に現れた琢磨に翔はいきなり乱暴に指輪のカタログを投げつけてきた。「おい! 翔! いきなり何するんだよ!」琢磨は咄嗟に手で受け取った。「それはこっちの台詞だ! 誰がいつ結婚指輪を用意しろって言った? どんなデザインがよろしいでしょうか? って、いきなり宝石店の店長がメールを入れてきた時には驚いたぞ! しかもその後、そこの社員が受付嬢に俺にこのカタログを渡してくださいと置いて行ったんだからな!?」その言葉を聞いて琢磨の表情は凍り付いてしまった。「な……何だって? 翔……お前、今何て言った?」「だから、何故結婚指輪が必要なんだよ? そんなものがあったら相手が勘違いするだろう? 本当に俺の妻になったんじゃないかって!」「勘違いも何も書類上はお前と須藤さんはもう夫婦だろうが! 結婚式も無しの婚姻届けだけ。一緒に暮らす事も無く、その上結婚指輪まで渡さないつもりだったのか!?」琢磨のあまりの激高ぶりに流石の翔も異変を感じ、声のトーンを落とた。「お、おい……落ち着けよ。俺は別に本当に指輪など必要無いと思ったからだ。大体、あの女を見ただろう? 化粧っ気も無く、アクセサリーの類も何もしていなかった。だから指輪なんか必要無いと思ったんだよ」宥めるように琢磨に言うが、逆に翔の言葉は琢磨の怒りを増幅させただけだった。「何!? お前は結婚指輪をただのアクセサリーのように考えているのか!? 結婚指輪の意味はな……永遠に途切れることのない愛情を意味してるんだよ! 確かにお前と須藤さんは6年間の書類上の夫婦だけになるだろうが、もう少し彼女を尊重してもいいんじゃないのか? 優しくしてやろうとかは思わないのかよ!」「それは……無理だな。俺が愛する女性は明日香ただ1人なんだから。それに無駄に優しくしてあの女が俺に本気になったらどうするんだ? 俺に過剰に愛情を要求し出したり、6年後絶対に別れたくないと言って裁判でも起こされたら? いや、そもそも祖父の引退の状況によっては6年も経たないうちに離婚する事になるかもしれないのに。だから、あの女に必要以上に接触しないのは……むしろ、俺なりの……愛情のつもりだ」「……詭弁だな。それは」琢磨は憐みの目で翔を見た。「何とでも言え。俺は結婚指輪をつけるつもりはない。あの
――その日の夜朱莉が質素な食事をしているとスマホに着信を知らせる音楽が鳴った。手に取り、早速開いて文面を読む。「あ……」それは鳴海翔からのメッセージでは無く九条琢磨からだった。『今日はお疲れさまでした。婚姻届けが本日受理されましたのでただいまより須藤様の苗字が鳴海にかわりますので、どうぞよろしくお願いいたします。新しい印鑑は後程郵送させていただきます。引っ越し業者もこちらで手配いたしました。3日後に業者がそちらへ伺いますので荷造りの準備を始めておいて下さい。後、結婚指輪をお作りしますので指輪のサイズを教えていただけますか? よろしくお願いいたします』「ふう……」朱莉は溜息をついた。この人物は余程有能なのだろう。今日だけでこれ程の仕事をこなすのだから。恐らく一流大の高学歴に間違いは無い。「やっぱりこういう人が会社では必要とされるんだろうな……あれ? そう言えば……指輪のサイズって……? 困ったな……。指輪なんて一度もはめた事が無いからサイズが分からないし……そうだ、調べてみよう」スマホをタップして、指輪のサイズの測り方を検索してみた。「へえ~。細い紙とセロハンテープがいるのね」早速セロハンテープと付箋を用意し、測ってみたところ朱莉の指輪サイズは7号だった。「7号か……。覚えておこっと」早速スマホにメッセージを打ち込んだ。『こんばんは。本日は色々とお世話になりました。引っ越し業者の件、どうもありがとうございました。明日、ここのアパートの解約をしてきます。指輪のサイズですが、今計測したところ7号でした。どうぞよろしくお願いいたします』(明日は会社に結婚した事と、仕事をやめる事を伝えなくちゃ……)朱莉は貰ったマンションのパンフレットを見た。港区六本木にある高級住宅マンション……いや、恐らく億ション。現在朱莉が住んでいるのは葛飾区の地区30年の古い賃貸アパート。そして職場はここから徒歩20分の缶詰工場。とても通勤出来る距離では無い。それに、これからは毎月150万ずつ振り込まれるのだ。日々の買い物はセレブだけが持つ事の許される「ブラックカード」もう一月16万円のパートをする必要は何処にもない。だけど……。「私が辞めると……困るかなあ……?」朱莉は溜息をついた―― 翌朝――「おはようございます。昨日は突然仕事をお休みしてしまい、申し訳ご